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小和田哲男が語る家康のリーダー哲学 家康の戦術をひも解けば、天下びとのリーダーシップが見えてくる。家康研究の第一人者・小和田鉄男が明かす、現代に活かす戦国時代のリーダー哲学。

どんな時も泰然自若であれ

 徳川家康が天下統一を果たすまでに歩いた道のりには、数々の優秀なリーダーとしてのヒントが隠されています。リーダーとしての家康をひも解いていくと、最も注目すべき点は「困った時にあわてないこと」。泰然自若とはまさに彼のことで、その姿はわずか19歳の時に勃発した「桶狭間の戦い」に見てとれます。
 今川義元が織田信長の奇襲攻撃により殺されたという第一報が味方から届いた時、普通の武将であればすぐに兵を動かして安全な領地へ戻ろうとするのですが、家康は兵を動かさない。当時は、デマを流して敵を混乱させる作戦も多々ありましたから、家康は腹心の家臣に情報確認へ行かせるんです。そこへ家康の母方の伯父にあたる水野信元の使者が駆け付けて、やはり義元は負けたと告げる。それでもやっぱり兵は動かさない。その上使者を抑留しておき、いざ移動するときには使者を前面に押し立てて、「我は水野信元の家中の者である」と正々堂々と岡崎へ戻ったんです。落ち武者狩りを警戒したわけですが、わずか19歳にして二重三重に思慮深い行動。
 家康のいざというときの落ち着いた対応は家臣たちの心をつかみ、後に「家康に三河武士あり」といわれるほど、統制の取れた強固な武士集団をつくり上げる源になりました。部下の結束を深め、力のある組織をつくるには、リーダーの落ち着いた姿と考え抜いた采配が、カギを握るといえるでしょう。

失敗を糧に道を切り開け

 また、家康は生涯“学びの人”でした。武田信玄に完膚無きまでに叩きのめされた「三方原の戦い」が、彼にとって人生の大きな転機となったんです。武田軍25000人、対する家康の兵力は8000人に信長の援軍3000人を加えた11000人。武将としてのキャリアもスキルも数枚上手の信玄に祝田の坂へまんまとおびき出され、わずか2時間の間に、家康軍は壊滅。家臣800人を失い、ほうほうの体で「浜松城」に逃げ帰ったんです。
 家康は城に戻るとすぐに絵師を呼び、自らの肖像を描かせます。世に言う「神君御顰(しかみ)像」ですね。痩せて、憔悴(しょうすい)しきった自らの情けない姿を小さな巻物に仕立て、慢心しそうになると眺めては気を引き締めた。自分自身の屈辱的な姿を受け入れ、対峙する懐の深さは家康の大きな魅力でもあります。ある武将が「名将と呼ばれる者は、一度大敗を喫した者だ。トントン拍子で人の心や人の痛みが分からない人間は、名将ではない」という言葉を残しています。大切な家臣が自分に身代りになり次々と死んでいった。家康はそれまでの武将と違い命の大切さを知り、人の命を大切にした最初の武将といえるでしょうね。
 失敗にとらわれることなく、次へ生かすテクニックが必要なことは、現代人も一緒。常に前を向き、失敗を糧に道を切り開く家康の懐の深さを学びたいものです。

常にビジョンを忘れるべからず

 他の武将たちと違い、家康が天下統一を成し遂げることができたのは、常に未来へのビジョンを脳裏に描いていたからなんです。物事に対するビジョンを描けるかどうかは、リーダーにとって大切な資質の一つ。若いころから尊敬する源頼朝にまつわる「吾妻鏡」を熟読し、その生き方や戦術を学び、目標を達成する強い信念を持っていました。歴史についての造形が深く、日本だけでなく当時先進だった中国の歴史についても勉強しているんです。グローバルな視野で物事を見ることができ、そしてそれを実際に生かしたところは、家康の先見の明を表していますね。
 そのほか、人材登用にも長けていました。敵の武将でデキル者は積極的に採用し、戦力の柱とした。当時の武将たちは負けて捕らわれると殺されることが多かったのですが、命を助けられた上に重要なポストを任せてもらう。家康に忠誠を誓うようになるのは当然でしょう。
 現代のサラリーマンが置かれている環境は、実は戦国時代の武士と良く似ているんですよ。家柄が出世のカギを握っていた門閥主義の時代から、能力主義へと移り変わっていったのが戦国時代。武士も転職が可能になり、自由に仕事を選べるようになった一方で、デキルかデキナイかが出世の判断材料になってしまった。今のサラリーマンの苦悩と同じですね。
 確固たる目標を持った人間は強い。家康も私たちも一緒ですよ。どんなときも長期的なビジョンを描いて一歩ずつ進むことが、一人一人の“天下取り”の道です。私たちも心してゆきましょう。

小和田哲男のお薦めスポット 犀ヶ崖古戦場

犀ヶ崖資料館

「三方原の戦い」で敗走する家康軍を追い、武田軍が「犀ヶ崖」に夜営を張ったときのこと。一矢報いようと百余人の兵と鉄砲隊が奇襲攻撃を仕掛けた。辺りは折からの雪が積もり、一面真っ白。V字型にえぐれた深い谷には、多くの武田軍が重なり合うように転落し、多くの犠牲者を出したという。この時、崖に布を渡して橋に見せかけて谷底へ落としたとも伝えられており、今も「布橋」という地名が残っている。今も犀ヶ崖は昼なお暗く、その当時の姿を偲ばせる。隣接する「犀ヶ崖資料館」では、さまざまな資料なども展示されており、「三方原の戦い」の歴史にふれることができるので、一度は足を運んでみたい。

DATA

犀ヶ崖資料館
住所:浜松市中区鹿谷町25-10
電話:053-472-8383
関連サイトはこちら

地図

小和田哲男のお薦めスポット 二俣城址

二俣城址

「二俣城」は、長男・松平信康が家康に切腹を命じられ、自害した悲劇の地だ。織田信長の娘であり、信康の妻・徳姫が、信康とその母・築山殿が武田方と内通を図ったことなどを報じたことで、信長の怒りを買い、信長の命で信康は切腹、築山殿は闇打ち同様に殺されてしまう。しかし近年では、信長の長男・信忠よりも信康の方が優れていたことから、将来の安泰のために信長が排除したという説もある。「二俣城」には今も、天守台・石垣・土塁などが残っている。野面積みの石垣は、自然石をそのまま使い、趣き深い。「二俣城」にほど近い「清瀧寺」は、信康の亡骸が葬られた菩提寺で、家康の手によって建立された廟などを見ることができる。

DATA

二俣城址
住所:住所:浜松市天竜区二俣町二俣
電話:053-457-2466(浜松市文化財課)
関連サイトはこちら

地図

家康の最大の魅力は、命を大切にしたことだと語る小和田教授。征夷大将軍になったときの今でいう所信表明演説で、「人を安易に殺してはならない。罪人であっても裁判をして処罰を決めること」と明言。武士だけでなく庶民の命も大切にしたという。

小和田 哲男 Tetsuo OWADA 小和田 哲男 Tetsuo OWADA

静岡市生まれ。静岡大学名誉教授・文学博士。戦国時代史を専門分野に、同時代を通して現代を生き抜くための講演などを各地で行い、好評を博している。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天下人」「江~姫たちの戦国~」などの時代考証担当。「関ヶ原から大坂の陣へ」「戦国武将の生き方死にざま」「詳細図説 家康記」(以上、新人物往来社)、「悪人がつくった日本の歴史」「歴史ドラマと時代考証」(中経出版)ほか、著作多数。

小和田 哲男 Tetsuo OWADA
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各空港から名古屋小牧空港までの路線|ひょいとFDA.com
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