家康の天下取りの理念は、意外と知られていないが「戦いのない平和な世の実現」だった。桶狭間の戦いで、今川義元の下で出陣した家康は、織田信長に敗北。そして大樹寺の住職・13世登誉上人の「厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」という教えに出会う。「厭離穢土 欣求浄土」とは、穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い、心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を求めること。家康にとって戦国の世は穢土であり、戦のない平和な世が浄土。戦のせいで、幼いころから家族や大切な家臣を失い続けた家康にとって、生涯、揺るぐことのない思想となり、数々の戦を見守る旗印とした。
部下の管理能力は、リーダーの資質を大きく左右する。それは現代でも、戦国の世も変わらない。
家康はデキない部下にもチャンスを与え、かつ、その対面までおもんばかる懐の深さをもっていた。1591年家康は、九戸政実の乱を、徳川四天王に数えられる実力者・井伊直政に鎮圧させようとした。すると側近・本多正信が「まずは格下の家臣を送り、ダメな時に直政を出陣させればよいのでは?」と進言。しかし家康は「そんなことをしては初めに行った者は面目を失い、討ち死にをするほかなくなってしまうではないか」と一喝する。
格下の者が失敗して恥をかかないように、最初から適任者を送り込んだ、家康のリーダー哲学がかいま見える決断。部下の実力を事細かに見極め、部下をひとりひとり、想いやる。そして適材適所で、冷静に戦略の決断をする。それが家康のカリスマの源泉だった。
今川の人質となり、さらに織田の人質となった幼少期。だが家康はその人質時代に、リーダーとしての資質を培っていた。当時の人質といえば、殺されてしまうことも多かった時代なのだが、家康はその才能を見込まれてか、きちんとした教育を受けることができた。禅や論語、六韜三略(りくとうさんりゃく)など。今川義元の教育係だった太原崇孚らに学び、リーダーの心得を習得。そしてたくましい精神力をも身につけていった。その後も、井伊直政や本多正信をはじめとするブレーンに囲まれて、天下を手にした家康。目上、目下も問わず、環境も選べない状況でも、「自ら学ぶ」心さえあれば、自分を磨いていくことができるものだと、家康の生き様が教えてくれる。
家康の家訓として長く伝えられてきた「東照宮御遺訓」。しかしこの言葉は、水戸光圀の「人のいましめ」をベースに旧幕臣・池田松之助が創作し、日光東照宮に奉納したものであることが明らかとなっている。家康自身の言葉ではないことは、残念ではあるが、長い間「家康の言葉」だと信じられていたように、この文章には家康の人生を彷彿させる言葉が続いている。今の世の中を動かすリーダーなら、一度は「東照宮御遺訓」を読まないと。ここから家康の歩んだ人生とともに、家康が抱き続けた理想像が見えてくるはず。
「東照宮御遺訓」
人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を 常と思えば 不足なし
心に望みおこらば 困窮し足る時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基
怒りを敵と思え
勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る
己を責めて 人を責むるな
及ばざるは 過ぎたるに 勝れり

